教育の”お客様”は誰なのか? 迷走する英語民間試験騒動と国を覆う教育改革依存症に思う

英語の民間試験を入試に使う話でゴタゴタが続いてるけど、問題の本質を突くネタが二つある。

ホリエモン、英語民間試験延期に「センター試験で何が悪いんですかね。良く出来てますよ」 : スポーツ報知
https://hochi.news/articles/20191103-OHT1T50066.html

実際に試験を受けて良問であることが分かっており、英語の能力を判定するにも、ちゃんとした勉強をする目標であっても適切だと評価している。もう一つ重要な指摘で、特性や癖のある民間試験なら、攻略法を探すという話である。民間試験利用延期で起こった私立高校の意図をバッサリと切り捨てる発言としても面白い。

 

萩生田大臣「身の丈」発言を聞いて「教育格差」の研究者が考えたこと(松岡 亮二) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68206

もう一つは教育格差の話だけど、都市部の余裕のある家庭だけ有利になるよねって指摘と、改革改革っていうけど、モニタリングしてないよねって話。

 

教育改革に関する議論が迷走する要因の一つで、素人の適当な発言がまかり通るということがある。我々は等しく教育を受けており、謂わばサービスを受けた経験がある。さらに経営者ともなれば、教育を受けた人材を雇用する立場であり、教育の成果を買う側である。また、親になれば子供に教育を”買う”立場になる。

ともなれば、自分たちは素人ではない、何か意見をいう権利はある、ということになる。しかし、意見を言う権利と、真剣に提案を聞いて貰う権利と、実際に改革をする立場とは違う。例えば、航空会社の上級会員が「わしゃ年に30回は飛行機に乗っておるぞ、ワシは飛行機くらい操縦出来るに違いない、ワシに変われ」ってコックピットのドアを叩いて騒いだら即刻逮捕である。同じようにボーイングの受付でワシに飛行機の設計をさせろって騒いでもつまみ出されるだけだ。やっていいのは航空会社のご意見コーナーに投書するか、自腹で免許取って自家用機を買うか、ニキ・ラウダみたいに航空会社を起業するかくらいである。

ご意見コーナーに「この点がサービスとしては問題だから、このように改善して欲しい。」と送れば、そばらくすれば「すまぬ。なるはやで改善する」「改善したいが時間がかかる」「金払っってないからサービス対象外」「飛行機落ちるから馬鹿なこというな」などと答えが返ってくる。そこで素人としての意見はプロの目で判定されて有益な施策に結びつくのである

 

でも、教育に関する議論においては、小は親の学校へのクレームから、大は経営者サマの有り難いお言葉まで、そういう変な話がまかり通って言うわけだ。しかも、プロの目での選別、ということを抵抗勢力が時代遅れの足の引っ張り方をしたと言われてしまう場合もある。

 

今回の案件でいえば、「日本人の英語力は低いのか」「そもそも英語力は必要なのか」「センター試験では不足なのか」「民間試験利用は妥当なのか」「民間試験は妥当としても公正さは保たれるのか」といった各段階でのチェックが必要だが、そういうのをやってないよねって話になる。

 

それがレントシーカーどもせいなのか、と言われるとそれだけではないだろうし、財務省のせいかといわれるとこれについてはそうでもないような気がする。どちらかというと、改革中毒というか、悪い意味でお客様ファーストになって迷走してるからってのがありそう。筑駒の生徒が入試改革を批判してたけど、名門校とかは大学の入学案内としての入学試験を信用し、センター試験は特に重視もしてないし、各校独自の英語教育の深みがあるので、二次試験が壊れない限りは改革は望まない。対して受験のコストが大きい地方や生活が苦しい家庭にとっては、複雑化は自分たちの選択肢を壊死させることにもなるので改革には批判的である。今回はその後者の不満や不安が爆発したわけだ。

じゃあこういう改革を望むのは誰かというと都市部の中間層なのかなと思う。サービスを買うという意識が強く、どうせ教育サービスを買うなら、ちょっとお金をかけてでも即物的に役に立つこと感のあることを効率的・良コスパで、と思うわけである。そこで、もろもろある民間試験の活用が、行政的にも親的にもコスパがいい、となったんだろう。親にとっては、教育はかくあるべきって理念もないだろうし、自分の子供以外の地方や生活が苦しい家庭のことは視野に入っていない。行政も公正かどうかというそもそも論を盾に「お客様」のご意見を切り捨てるわけにもいかず、政治家はお客様のご意見を生かすのが使命だと張り切り、こんな迷走にいたったのだろう。また、改革に反対する側にとっては、「お客様のご不安のご解消」に繋がる施策があるわけでもないので、これも答えが打ち出せているわけでもないんよね。

 

地方や生活が苦しい家庭のことをいうなら、ベネッセを国有化して全国津々浦々英語のテストをネット経由で出来るようにして、採点者も法令なり特許の通訳者も兼務で公務員として雇用して、さらに受験料も全員無料か親の所得の0.1%にしたら解決なのか、といえばそうでもないよな。

 

ズッコケ三人組の卒業式の回だったかで、老先生が「受けた教育が良かったのか悪かったのかは自分が死ぬときまで分からない」っていう下りがあるけど、教育の本質ではある。しかし、何をどう教育してどう現場を管理するかと考えると、何かしらの評価軸は代用品でもいいから必要であり、それが学力であり、近年は生きる力だののポエムが追加されているわけである。でも代用品は代用品であり、本質的には評価しきれないんだ、ということが起点であるべきだ。ならば学力テストの成績で校長の評価を決めたり、評価を上げようと頭の弱い子を休ませるようなKPIハッキングがされたりはしないはずだ。でも維新のような納税者に対して悪しきお客様ファーストを貫くと 現場を圧迫するわけである。

 

教育学者を中心に共通テスト撤回を叫ぶ声は大きいけど、だったらどういう代案があるのか、という提示があるべきだろう。専門家として反対するなら、やはり代案があってしかるべきであろう。それは山奥の高校生や生活が苦しい家庭の高校生にとって公正というだけでは。主たる”お客様”の不満に対して答えにはなっていない。是非ともそれぞれの改革案(現状維持も含む)を提示して

 個人的にはセンター試験マークシート+普通の試験内容のままでも、4技能とやらと十分な相関があることを示して、あとは大学の二次試験でやってくださいね、あれこれ内容を付加しろって要求は受け付けませんよっていうべきだろう。大学が民間試験を活用することをどう統制するか、ということになるけど、入試問題を作る手間に疲弊する大学からすると民間試験への依存は逃れられないのでは。