涜神の義務と踏み絵と風刺画

ここに襲撃事件についての2つの言説がある
フランスの新聞社 シャルリー・エブド襲撃事件について - alternativeway
http://blog.goo.ne.jp/iida-miki/e/0d68f604177d2bdeb387e20a5dc9afb0
これはテロでなく集団殺人事件だ Parisシャルリ・エブド襲撃事件を斬る−藤原敏史・監督 | 日仏共同テレビ局フランス10
http://www.france10.tv/international/4581/

前者については、一読して身の毛がよだつようなおぞましさを感じた。
前者のおぞましさは、努力して名誉フランス人になれた、という上から目線があるからだ。そしてその国家体制で居心地がいい、といっているところにある。独裁国家のエリート市民が自分は弾圧されることもないので幸せですっていってるようなもんだ。イスラム団体が非難声明を出したことを賞賛しているが、これも意地の悪い見方をすれば中間団体が如才なく国家権力というか空気に屈服しているともいえるわけだ。もはや従前までの風刺画への抗議も出来まい。犯人と戦って殉職した警察官がイスラム教徒であったのもまたある種の方向性の定まった言説である。
そもそも日本人がノースキルの労働者として海外に渡るということはもはやほとんど無くて、すでに専門性の高い技能を持って向こうの社会の一定の階層に食い込むのである。だから向こうのマジョリティやエリートの価値観にどっぷりそまった言説しか出てこない。風刺画に理解を示して糞ジャップどもは違って近代的市民であることを示すのだ。普通の日本人のホンネの「あの風刺画はないわ」は出てこない。

そもそも厳格な政教分離、というのは往々にして”政教分離”というイデオロギーが非寛容な宗教となり、他の宗教への弾圧になる。公有地にお地蔵さんを置くわけにはいかないと撤去して、間違って石材屋で破砕されてしまったという悲惨な「事件」があった。これも厳格でかつ非現実的なイデオロギーがもたらした惨事である。
またフランスにおいても、公教育の場からの宗教的シンボルの排除などが行われ、イスラム教徒との深刻な摩擦を引き起こしている。そもそも、カトリックの影響の強い王朝を革命で破壊し、独裁者ナポレオンが作った寺請制度みたいなもんも打破してフランスの近現代があるそうだ。つまり革命国家なのである。革命国家の理念としての政教分離は、もはや教条的なものになる。政教分離はそれに順応できる宗教もあればそうじゃない宗教もある。近代と折り合いを付けたり、あるいは生活習慣へのしばりが希薄なキリスト教や仏教よりも、それらが厳しいイスラム教のほうに過酷に働く。そして政教分離という国家イデオロギーに屈服するか否かを強いるのである。つまり踏み絵である。イスラム教徒はあれらの風刺画を容認することを強いられるのだ。容認できないから近代社会の市民失格であると。そして訴訟などをするも救済がされることはなかった。国家がイスラム教徒イジメを容認していることになる。

ロッコの新聞の風刺画で、みんな前を向いて礼拝しているのに、一人だけ過激派が銃を背負って後ろを向いている、という風刺画があった。別にタブーに踏み込まなくても風刺画は描けるし、より多くの穏健なイスラム教徒から共感を得られる。それでもアッラーコーランを揶揄する風刺画を描く権利がある、すべての権威を嘲笑する必要がある、というのはもはや非寛容な宗教である。近代国家における公正な論争ではなく非寛容な宗教と非寛容な宗教との衝突である。「宗論はどっちが勝っても釈迦の恥」というが、本邦では宗論のあげくに天文法華の乱で京都を焼け野原にして先人は懲りたようだ。一線を越えないのはマナーであり、街を焼け野原にされない知恵である。

言論の自由は近代国家の根幹であるが、それを実質的に担保しているのは国家権力の統制された暴力である。たけしに殴り込まれたフライデー編集部は警察に通報したし、今回の一件の犯人を捕まえるのはフランスの治安機関であって、事件の発生から解決までという短い期間においては、犯人を批判する記事というペンの力で解決されるものではない。言論の自由に燃えるジャーナリストが、警官軍人や一般市民に対して、俺の言論の自由のためにお前も一緒に死ね、といえるのかどうか。タカ派の政治家が戦争を煽り、ハト派の政治家が死ぬのはお前じゃなくて若者だ、と批判するのと似たような話だ。けどそういう批判ですら許されないかもしれない。前回の風刺画事件でも政府は自粛を要請したが、ひくわけにはいかないと掲載した。もはや「ジハード」である。多くの巻き添えまで出しての大混乱が問うていることは辛い。

対して後者の藤原監督の意見には納得が出来る。はぶられる側の経験からすれば、マジョリティが強いる踏み絵の恐怖はあるわな。原発がらみでの風刺画について本邦の政府が遺憾の意を示して、向こうからは木で鼻をくくったような返答があって、まあバカ相手してもしかたないですなと見下げてすっきりすることが出来た。これは我々が日本国内においてはマジョリティであるからこそ出来ることである。彼らにはすっきりする術などない。踏み絵を強いられているだけだ。そして事件によって抗議することの正当性すら奪われた。日本国内のごたごたなら「どっちもどっち」というメディアの良識とも遠慮とも逃げもともいえるような姿勢が事態の冷却に寄与するが、もはや他のメディアも”ジハード”体制である。文明の衝突を自ら招いてどうするんだよ。こっちとしては火の粉がかからないように遠目に見ておくだけである

ちなみにその風刺画を載せていた雑誌の前進は「ハラキリ(アラキリ)」だそうである。フランス人が見たハラキリというと堺事件である。
【関西歴史事件簿】堺事件(上) 血で明けた明治維新の〝現実〟、堺上陸のフランス兵に銃撃22人死傷…新政府VS旧幕府〝遺恨〟が誘発「場外乱闘」(1/3ページ) - 産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/140105/wst1401050078-n1.html
【関西歴史事件簿】堺事件(中) 処刑者20人「くじ引き」で決めた新政府・土佐藩…〝国力〟かなわずフランスに屈した「代償」(1/3ページ) - 産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/140112/wst1401120079-n1.html
【関西歴史事件簿】堺事件(下) 武士たちは己の内臓を投げつけ、首が落ちるまで何度も介錯した…仏人が目を覆った11人の壮絶・切腹シーン、余りの残酷さに途中で中止 (1/3ページ) - 産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/140119/wst1401190074-n1.html
不条理な政治的決定に対しての臓物を引きずり出して投げつけるというすさまじいまでの怒り、どうも伝わっていないような

ここは酷い決まりは決まりだからですね 障害報告@webry/ウェブリブログ
http://lm700j.at.webry.info/201407/article_47.html
ここは酷いキリスト教の暦ですね 障害報告@webry/ウェブリブログ
http://lm700j.at.webry.info/201409/article_38.html