中国の「結果的メタ影響力工作」に警戒せよ

細谷雄一の研究室から:中国の影響力工作という深刻な問題
http://blog.livedoor.jp/hosoyayuichi/archives/2000290.html
細谷雄一の研究室から:中国の対日影響力工作という深刻な問題(補足)
http://blog.livedoor.jp/hosoyayuichi/archives/2000334.html
元公安刑事「沖縄で中国スパイは活動している」県民も工作の対象か
https://blogos.com/article/478806/

沖縄のメディアに中国が資金提供をして影響力工作をしている、というアメリカのシンクタンクの報告書が出て物議を醸した。情報提供した日本の学者のコメントが誤解されて、とのことであり、撤回されたが、いろいろな問題を含んでいる。

「中国が沖縄の新聞に資金提供」 報告書の記述撤回 米国シンクタンク戦略国際問題研究所」 | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラス
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/621475

「沖縄の新聞に中国資金」 米シンクタンクCSIS報告書に誤り  細谷雄一慶応大教授の発言引用 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1178408.html

 

もとより中国が文化活動や教育活動、メディアでの宣伝を通じて自国の優位性や正統性を喧伝し、中国に懸念を示す専門家の活動を阻害しているという指摘がある。

対して日本では、その問題はさほど重視されてこなかった感がある。

ここは酷いシャープパワーですね: 障害報告@webry
https://lm700j.at.webry.info/201802/article_5.html

この行き違いには何があるのだろうか?

 

 

これって確度や公然さの違う複数の事象が同時に存在してるけど、その事象の因果関係とか効果については定かではない、という問題によってもたらされた混乱があると思う。

 

1a.中国は日本国内の沖縄の民族独立活動に対して学術・文化活動として公然と支援をしている
1x.中国は日本国内の沖縄の民族独立活動に対して政治工作として非公然に操作をしている

2a.中国のビジネスマンや留学生が日本の各所で公然と日本人と深い関係を作ろうとしている
2x.中国のビジネスマンや留学生が日本の要所で非公然に情報工作をしている

3a.沖縄のメディアは日本政府やアメリカに対して不信感を持っている
3b.沖縄のメディアは中立を越えて民族活動に共感を寄せている
3c.沖縄のメディアや意志決定層は中国政府や資本を好意的な協力者と思っている
3x.沖縄のメディアや意志決定層は中国政府に動かされている
3y.沖縄の民族独立活動は中国に支配されたメディアや意志決定層が作り出した

4a.中国政府が公的なチャンネルで文化的喧伝をしている
4b.普通の日本国民は中国政府を気味悪がり、中国民族に対しては親近感をあまり持っていない
4c.インテリの日本人は中国政府の政策の”合理性”は認めるが一切信頼していない

 

abcは公然であり確度の高い情報であり、xyは陰謀論に近いで確度が低いか、あるいは工作活動をしていても実を結んでいるかは分からない話である。

 

1aだから1xであるとは限らないし、1xだからといって効果を発揮してるとも限らない。2aは当然のことだろうし、2xもやるだけはやってると思うけど、効果を発揮しているかどうかは分からない。
そもそも4aの活動に対しても4bや4cという背景があるので、あまり影響力工作が作用としているともいえない。
問題はそこで、非公然の影響力工作の対象だといわれることは信頼失墜に繋がるということがある。
今回の事例でいえば1aと2aと3aと3bと3cと4aだからといって3xや3yであるとは限らない。というか疑うのも失礼なとこもあるくらいである。

しかし、中国政府が効果のほどを考えずに1aや2aや4aの影響力工作を続ければ、4bと4cの背景によって影響力工作の対象は日本社会から信頼性を失っていく。おそらく中国政府はこの構造に気付いていないか、あるいは気にしていない可能性が高い。戦狼外交官などと称して外交マナーを無視してイキり倒してる外交官が中国では評価されているあたり、その工作活動についても、工作活動をすることに評価が置かれ、相対的な結果の評価を真面目にやっているとは思えないフシがある。IR汚職だって、たかだか数億とか一企業の利益のために、食い込んでいた成長途中の政治家をつぶしてしまったわけで、これが政府の工作活動だとしたら、流石に世界の情報機関に謝れと思うけどな。

 

結果として影響力工作の存在自体が、メタ的に作用して日本国内での分断を産んでいるわけだ。いわゆる褒め殺し的な感じになっているわけである。その点について、日本の論者は配慮をすべきであるし、例えば沖縄のメディアや意志決定層も工作の対象だと言われている点について危機感を持つべきであろうし、中国関係の人脈から公然・非公然とアプローチはあるわけで、「こういう話があったが常識の範囲の付き合いである」とかは述べてもいいのではと思う。

 

また中国政府におかれましても、孔子学院やTikTokのように各国とも保守政治家は中国に纏わるものを焼いても怒られないどころか拍手喝采になってる状況を鑑み、世界で活動する同朋を守るためにも、もうちょっと品みたいなことは気をつけたほうがよろしいんじゃいんですかね。

 

 

 

教育の”お客様”は誰なのか? 迷走する英語民間試験騒動と国を覆う教育改革依存症に思う

英語の民間試験を入試に使う話でゴタゴタが続いてるけど、問題の本質を突くネタが二つある。

ホリエモン、英語民間試験延期に「センター試験で何が悪いんですかね。良く出来てますよ」 : スポーツ報知
https://hochi.news/articles/20191103-OHT1T50066.html

実際に試験を受けて良問であることが分かっており、英語の能力を判定するにも、ちゃんとした勉強をする目標であっても適切だと評価している。もう一つ重要な指摘で、特性や癖のある民間試験なら、攻略法を探すという話である。民間試験利用延期で起こった私立高校の意図をバッサリと切り捨てる発言としても面白い。

 

萩生田大臣「身の丈」発言を聞いて「教育格差」の研究者が考えたこと(松岡 亮二) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68206

もう一つは教育格差の話だけど、都市部の余裕のある家庭だけ有利になるよねって指摘と、改革改革っていうけど、モニタリングしてないよねって話。

 

教育改革に関する議論が迷走する要因の一つで、素人の適当な発言がまかり通るということがある。我々は等しく教育を受けており、謂わばサービスを受けた経験がある。さらに経営者ともなれば、教育を受けた人材を雇用する立場であり、教育の成果を買う側である。また、親になれば子供に教育を”買う”立場になる。

ともなれば、自分たちは素人ではない、何か意見をいう権利はある、ということになる。しかし、意見を言う権利と、真剣に提案を聞いて貰う権利と、実際に改革をする立場とは違う。例えば、航空会社の上級会員が「わしゃ年に30回は飛行機に乗っておるぞ、ワシは飛行機くらい操縦出来るに違いない、ワシに変われ」ってコックピットのドアを叩いて騒いだら即刻逮捕である。同じようにボーイングの受付でワシに飛行機の設計をさせろって騒いでもつまみ出されるだけだ。やっていいのは航空会社のご意見コーナーに投書するか、自腹で免許取って自家用機を買うか、ニキ・ラウダみたいに航空会社を起業するかくらいである。

ご意見コーナーに「この点がサービスとしては問題だから、このように改善して欲しい。」と送れば、そばらくすれば「すまぬ。なるはやで改善する」「改善したいが時間がかかる」「金払っってないからサービス対象外」「飛行機落ちるから馬鹿なこというな」などと答えが返ってくる。そこで素人としての意見はプロの目で判定されて有益な施策に結びつくのである

 

でも、教育に関する議論においては、小は親の学校へのクレームから、大は経営者サマの有り難いお言葉まで、そういう変な話がまかり通って言うわけだ。しかも、プロの目での選別、ということを抵抗勢力が時代遅れの足の引っ張り方をしたと言われてしまう場合もある。

 

今回の案件でいえば、「日本人の英語力は低いのか」「そもそも英語力は必要なのか」「センター試験では不足なのか」「民間試験利用は妥当なのか」「民間試験は妥当としても公正さは保たれるのか」といった各段階でのチェックが必要だが、そういうのをやってないよねって話になる。

 

それがレントシーカーどもせいなのか、と言われるとそれだけではないだろうし、財務省のせいかといわれるとこれについてはそうでもないような気がする。どちらかというと、改革中毒というか、悪い意味でお客様ファーストになって迷走してるからってのがありそう。筑駒の生徒が入試改革を批判してたけど、名門校とかは大学の入学案内としての入学試験を信用し、センター試験は特に重視もしてないし、各校独自の英語教育の深みがあるので、二次試験が壊れない限りは改革は望まない。対して受験のコストが大きい地方や生活が苦しい家庭にとっては、複雑化は自分たちの選択肢を壊死させることにもなるので改革には批判的である。今回はその後者の不満や不安が爆発したわけだ。

じゃあこういう改革を望むのは誰かというと都市部の中間層なのかなと思う。サービスを買うという意識が強く、どうせ教育サービスを買うなら、ちょっとお金をかけてでも即物的に役に立つこと感のあることを効率的・良コスパで、と思うわけである。そこで、もろもろある民間試験の活用が、行政的にも親的にもコスパがいい、となったんだろう。親にとっては、教育はかくあるべきって理念もないだろうし、自分の子供以外の地方や生活が苦しい家庭のことは視野に入っていない。行政も公正かどうかというそもそも論を盾に「お客様」のご意見を切り捨てるわけにもいかず、政治家はお客様のご意見を生かすのが使命だと張り切り、こんな迷走にいたったのだろう。また、改革に反対する側にとっては、「お客様のご不安のご解消」に繋がる施策があるわけでもないので、これも答えが打ち出せているわけでもないんよね。

 

地方や生活が苦しい家庭のことをいうなら、ベネッセを国有化して全国津々浦々英語のテストをネット経由で出来るようにして、採点者も法令なり特許の通訳者も兼務で公務員として雇用して、さらに受験料も全員無料か親の所得の0.1%にしたら解決なのか、といえばそうでもないよな。

 

ズッコケ三人組の卒業式の回だったかで、老先生が「受けた教育が良かったのか悪かったのかは自分が死ぬときまで分からない」っていう下りがあるけど、教育の本質ではある。しかし、何をどう教育してどう現場を管理するかと考えると、何かしらの評価軸は代用品でもいいから必要であり、それが学力であり、近年は生きる力だののポエムが追加されているわけである。でも代用品は代用品であり、本質的には評価しきれないんだ、ということが起点であるべきだ。ならば学力テストの成績で校長の評価を決めたり、評価を上げようと頭の弱い子を休ませるようなKPIハッキングがされたりはしないはずだ。でも維新のような納税者に対して悪しきお客様ファーストを貫くと 現場を圧迫するわけである。

 

教育学者を中心に共通テスト撤回を叫ぶ声は大きいけど、だったらどういう代案があるのか、という提示があるべきだろう。専門家として反対するなら、やはり代案があってしかるべきであろう。それは山奥の高校生や生活が苦しい家庭の高校生にとって公正というだけでは。主たる”お客様”の不満に対して答えにはなっていない。是非ともそれぞれの改革案(現状維持も含む)を提示して

 個人的にはセンター試験マークシート+普通の試験内容のままでも、4技能とやらと十分な相関があることを示して、あとは大学の二次試験でやってくださいね、あれこれ内容を付加しろって要求は受け付けませんよっていうべきだろう。大学が民間試験を活用することをどう統制するか、ということになるけど、入試問題を作る手間に疲弊する大学からすると民間試験への依存は逃れられないのでは。

 

ギグエコノミー・シェア経済という限界費用型デフレ

ウーバーイーツの配達員が労組を結成したというニュースがあり、それに対して意識高い系が批判的な発言をしていた。確かに消費者や暇々に小遣い稼ぎをしたい人にとっては不利益な話なのかもしれない。

本業があって、空き時間に稼ぎたい人にとっては、上がりがまるまる小遣いになるわけで、採算ラインは低い。本業の側で家賃食費やら社会保険料を賄っていて、可処分所得の中から趣味として自転車を買っているなら、暇つぶしに対価が得られるだけでもまるもうけだし、ダイエットのための運動って感じなら、お金なんか貰わなくてもいいかもしれない。

しかし本業で配達員をやる労働者にとっては、給与は家賃・食費やらの生活費、社会保険料、再生産としての子育てのコスト、仕事道具のメンテコストに加えて老朽置き換え用の償却費的なコストもかかってくる。なので採算ラインはずっと高い。

社会にあるヒマをあつめることで成立するいうギグエノコミーであるが、ガソリン代+お小遣い分さえ出れば良い手持ちの車でやるシェアライドが、車両コストとドライバーの人生のコストがかかってるタクシーを圧迫している。ただシェアライドも競争が激しくなると、いい車を買い手入れをする必要があり、タクシーのコストに近づいていく。シェアライドのドライバーは、タクシーが滅びて小遣いレベルに切り下げられた収入から人生と車両のコストを負担することになり破局するのである。ウーバーのような運営会社も右から左にお金が流れていくだけなので、労働需給逼迫を反映させた価格に値上げをして、ワガママな消費者からブーイングを浴びるか、同業他社とカルテルを組んで値上げするか、タクシー配車サービスに切り替えるか、しか選択肢がない。

このような問題を我々はすでに体験している。バスの自由化がそれである。

バスの自由化で起きたことは大会社のドライバーが独立して中古車を買って家族経営をするという流れであった。この場合、大会社が負担しているバスの更新費用やドライバーの教育費用、安全対策費用は当座は負担をしなくてもいい。最初はそこで発生したのが買いたたきであり、燃料代と飢え死にしない程度の人件費に価格が切り下がってしまった。

ちょうど2代目エアロバスが1992年、初代セレガが1990年に登場しており、規制緩和された2000年代初頭の時点では経年は10年程度で現行車種でもあり、見劣りすることはなく、また部品の調達も問題が無いので延命が可能であった。市場が拡大するが、拡大分に見合った新造数ではなく、また置き換えが進まなくなり車両の年齢は伸びていった。

ドライバーにとっても、待遇が悪化したり、若手を育成する余裕がなくなり、高齢化が進んでいった。しかしまあ人は老けなくなったところもあり、10年くらいは延命によってリプレイス分のコストが回避出来たので、限界費用的な価格でもなんとか回っていたのである。何しろ客はツアーバス比較サイトで最安値を探すだけで、サービスの本質的な品質を見ることはないし、多段口入れ屋のおかげでそういうところは全て隠蔽されているので、差別化も不可能であった。悪貨は良貨を駆逐する、のように、全てのコスト(+不採算虫の息ローカル路線への内部補助)がかかっている正規の高速バスを淘汰した。

そして10年ちょいたった時には、90年代初頭から酷使され朽ちたバス、若手が入らず疲弊した高齢ドライバーだけが残っていた。制度改革で高速バスへの統合があったり、安全面での規制強化で限界費用的価格で受けるプレーヤーを排除したり、インバウンド需要で値上げが可能になったりした。しかし、育成にコストが回らなかったドライバーの不足は解消されず、需要の落ち込みを懸念したメーカーは生産力向上をあまりせず車両のリプレイスも進まなくなっている。自動運転・AMT化で強制的にリプレイスが進むようになって状況は改善されたが。

 

で、配達員の話に戻るけど、ギルドとしての労組が要求する形でフルコストを条件として飲ませた上に、国が限界費用で受けるようなサービスを圧殺するようにしないと、これらの問題は解消されない。

1円でも安いサービスを求めるワガママな消費者たる我々であるが、限界費用型サービスに負けて失業するかもしれないし、安全レベルの低い労働者に公道で轢かれるかもしれない。だったら、適切な価格水準でのサービスだけが残るように労組によるギルド化や不良プレーヤー・不良企業の排除に賛同すべきではないのかね。

 

イノベーションは大事だけど、人権や人生でさえ限界費用まで買いたたくような結末を望んではいないはずなのだが。

 

 

旗振り通信の話

Google翻訳のテスト代わりに貼っておく。HFTに翻弄されるアメリカの金融当局より江戸幕府のほうが有能だったという話。

江戸時代、日本では数種類の本位貨幣があった。金、銀、銅貨、そして米である。サムライの給与は、支給される米の量か、領地の米の生産量で表された。サムライは、藩主や幕府から支給された米の引き換え証券を換金して生活していた。経済の中心であった大阪には、多くの米を取り扱う商社があった。そして、米の活発な取引は世界初の先物取引の市場を成立させた。商社は、大阪と東京の間でライスの価格をリアルタイムで通信する必要が生まれた。商社やメッセンジャー会社は、山頂同士を旗を振りながら通信するシステムを作り上げた。通信速度は極めて速く、現在の新幹線に匹敵する。幕府は高速通信による市場の暴走を防ぐために、大阪の市場から旗通信を直接開始することを禁じ、近郊の生駒山の山頂まではメッセンジャーによる伝達を強いられた。この旗通信システムは、政府は一切関与せず、民間企業によって経営された。
旗通信システムの完成度は高く、複数企業の競合もあった。また民間企業の専用線であることも優位性があった。明治維新になって、電報が導入されても旗通信は依然として利用が続いた。電報は公営事業であるため、通信まで待たされるからである。ロシア皇太子が負傷した大津事件でも、第一報を届けたのは旗通信であった。旗通信は電話の普及によって終焉を迎えた。現代になっても、旗通信の中継地点の地理的特性は変わらず、直進性を求められるマイクロ波回線のための中継用のアンテナが設置されることも多い。
市場の安定性や平等性と、通信との関係を考慮した江戸幕府は賢明であった。対して、アメリカでの高頻度取引の問題は、市場と通信技術の問題を浮き彫りにしている。またプレ近代の高速通信である旗通信と、高頻度取引にも有用とされるマイクロ波回線が、中継地点の特徴では共通性が高い。この二つの逸話は、経済史と通信技術史の間の皮肉である。


In the Edo period, there were several kinds of standard currency in Japan. It is gold, silver, copper coin, and rice. The salary of Samurai was expressed by the amount of rice to be paid or production of rice in the territory. Samurai lived by cashing out redemption securities of rice received from the lord or the shogunate. In Osaka, the center of the economy, there was a trading company dealing with many rice. And the active trading of rice established the world's first futures market. The trading company was born the need to communicate the price of rice in real time between Osaka and Tokyo. Trading companies and messenger companies have created a system to communicate while swaying flags across the summit. The communication speed is extremely fast, comparable to the current Shinkansen. The shogunate forbade the direct communication of flag communication from Osaka's market in order to prevent runaway of the market due to high-speed communication, and forced the messenger to convey the mountaintop of the nearby Ikoma Mountain. This flag communication system did not involve the government at all and was managed by a private company.
Flag communication system was highly completed, there was competition among multiple companies. It was also advantageous to be a private line for private companies. Even though the telegram was introduced after the Meiji Restoration, flag communication continued to be used. Because the telegram is a public project, it is kept waiting until communication. Even in the Otsu incident where Russian prince casualties were injured, the first report was delivered by flag communication. Flag communications came to an end with the spread of telephones. Even in the present age, the geographical characteristics of the relay point of the flag communication do not change, and a relay antenna for the microwave line which is required to go straight is often installed.
The Edo shogunate, which considered market stability and equality and the relationship with communication, was wise. On the other hand, the problem of high frequency trading in the United States highlights the problems of the market and communication technology. In addition, flag communication which is pre-modern high-speed communication and microwave circuit which is also useful for high-frequency trading have high commonality in features of the relay point. These two anecdotes are ironic between economic history and the history of communication technology.

旗振り山

旗振り山

ゼロリスク志向とリアルリョナと呪われた組み体操

これまで等閑視されてきた組み体操のリスクが明らかにされて、国をはじめ行政が動き始めている。その中で、自治体での対応は分かれている。
まずは、基準を決めて規模を制約というパターン。ピラミッドとかタワーとかの段数に制限を加えるもの。労働衛生規則の2mに準拠した事例となっている。これで大幅にリスクは軽減できるが、子供にとって2mはまだまだ危険だ、という観点からすればより段数は低くなり、ほぼ成立しなくなるだろう。逆に、一律の規制では学校を不必要に制約することで考える力を失わせる、という意見もある。
逆に、さらに踏み込んで全面禁止に進みつつある自治体もある。実質的に学校ではこれまでまともにリスク分析を行えてなかったんだから、今後もちゃんと出来るとは思えない、というある種の不信任に近いところもある。「ゼロリスク」志向の末路だという批判もあるし、学校現場の萎縮を懸念する声もあがっているが、それなりに支持が得られる意見となろう。
じゃあ学校レベルで是々非々で基準を設定できるか、というと、子供の体力や丈夫さの分布はどの学校もほぼ同じだし非現実的である。じゃあ腕のいい先生がちゃんと指導して、それをもってしてよそよりもリスクの高い演技を許容した結果、それでも事故が起きたら、指導が足りなかったのではなく、よそよりも基準が甘いからだ、とはなるわけで、もう厳しくなる一方であろう。

これはゼロリスク志向とか、日本社会がリスクを合理的に判断出来ないからだ、という一般的な社会とリスクの関係で読み解くべきかどうかは分からない。もっと宗教的・あるいは民俗学的な考え方で読み解くべきではないだろうか。

リアルリョナとしての組体操 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/823836
以前、かかる考察を行った。危害にこそ価値がある、という倒錯した構造があるのではないかと考察したのである。
そうこう考えているときに、衝撃的な論文を見つけてしまった。
諏訪大社御柱祭文化人類学的研究―祭礼の存続と民間信仰
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/22379/3/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%BF%8A%E4%BB%8B%E3%80%80%E5%8D%9A%E8%AB%96.pdf
これの中程の2-2の章である。公式にはいないはずの祭りでの犠牲者が出たとの噂がしきりに流れる。死者が出てしまえば祭りが穢れるのでそれを隠蔽しているんだ、という話になる。しかし、わざわざそういう話をするあたり、祭りには死者がつきものであり、だからこそ意味があるのだ、というイメージを再生産している倒錯した構造がある。
これって組み体操での議論と似ていないだろうか。リスクが顕在化した段階でも、推進派はケガはつきものだと擁護するが、反対派はそもそも価値がないものに参加させられてリスクを負うのはおかしい、と拒否する。双方とも参加させられてリスクにさらされる当事者ではないところは共通である。「犠牲者」という言葉には、大いなる目的のためにリスクを引き受けてその結果、というニュアンスもある。組み体操が犠牲者の存在を通じて学校という組織の繁栄を祈願する祭りだったとしたら?そして、その御利益がある日突然否定されてしまったとしたら。

そりゃ、ある日突然、祝祭であったものが凶事にという風に逆転してしまったし、参加させられる生徒やその保護者も共同幻想が剥がれてしまっては、もう続けるは困難だし、いままで感動してきたこと自体が罪となるだろう。特に意味は無いけどくじ引きして、毎年一人ずつ大当たりした子の骨をへし折ります、というだけの話になってしまう。リスク評価しながら取り組んできたことなら、ここまでの極端な反応はないだろうけど、もとより心情的・感情的・宗教的な行事であったとすれば、化けの皮が剥がれてしまってはもう終わりである。リスク分析をして、というのはかつて騙されていたカルトに立ち戻ったり荷担することになるという心情が先に立てば、もう「騙されていた、私が愚かであった」と全面否定して罪悪感から逃れるしかあるまい。

元プロレスラーの大臣が元からリスクを分析して否定的であるのは、プロレスラーとして身体へのリスクをコントロールしながら仕事をしてきて、それでも瀕死の重症をおった経験があるからであり、ヤンキー副大臣が祝祭としての御利益ばかり評価するのも対照的だ。ただ、先の考察が正しければ後者のほうがより極端な否定に変わることは想像に難くない。

そもそも学校に何を求めるのか、というのはまさに個人個人の考え方の違いがある。自分で好きなことや取り組んでいることがあれば、充足感とかはそこから得ることが出来る。しかし大多数はそういうのはあまりないわけで、学校が充足感を供給する必要がある。しかし偏屈であれば、学校から供給される充足感を利用することは出来ない。学校行事、特に運動会については、この3層構造がある。やりたいことが他にあるなら、運動会でのリスクというのは受け入れることは出来ない。謂わば、酷道に興味の無い人を酷道に連れて行って崖から転落させるようなもんだからな。芸事やスポーツをやっているなら、ケガは致命的であり、学校のシステムを維持するために個人の権利や未来の可能性が侵害されたと考えるだろう。対して学校としてはシステムを守るためには、そういうエリートも平等に扱う必要がある。そこに強烈なコンフリクトが生まれる。また組み体操の御利益を元から信じていないなら、意味の無い行事のリスクを背負わされて犠牲者にされた、という怨念がある。吹き出した少数派の怨念が大多数のあやふやな誇らしい思い出を叩きつぶすことになった。

で、集団行動が苦手でも体力が有り余っていれば、棒倒しや騎馬戦のような騒乱系の競技の満足度は高そうである。だから、じゃあ安全なダンスで、というとゲンナリするだろう。元よりネット民あたりは偏屈に分類されるだろうから、運動会とかなくなっても特段困ることはない。しかし大多数の普通の生徒にとっては、充足感をとりあげられるだけだから大損である。9割のためのイベントの模索が続くだろうが、あまりいい結果に結びつかないような気がする。学校がより開かれた存在になり、保護者や地域からの評価が当たり前になり、多様な任務や充実感まで求められるようになった昨今において、組み体操や二分の一成人式は負荷の強い、もっといえば負荷が強いからこそ感慨深いはずの祝祭として異形の行事として深化をしてしまった。近代的な学校を通り越して現代的な価値を求めた結果、近代化以前の構造に戻ってしまったという皮肉な結末である。kの歪んだ構造がある限りは、ほどほどの政策や路線の変更よりも、推進するときの歪んだ理屈が逆流するような否定論になっていくだろう。

教育勅語をどう扱うべきか

昨今、また教育勅語が脚光を浴びている。悪い意味で
【メガプレミアム】安倍首相夫人・アッキーも感涙…園児に教育勅語教える“愛国”幼稚園 「卒園後、子供たちが潰される」と小学校も運営へ(1/4ページ) - 産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/150510/wst1505100014-n1.html
北朝鮮?「沖縄県祖国復帰42周年記念大会」で園児が教育勅語を一斉唱和 - ライブドアニュース
http://news.livedoor.com/article/detail/11062062/
前者は産経WESTとは思えないあれな記事だなあ、という感想

教育勅語、というと、とかくその扱いが左右に二分されてしまう
右は道徳教育の鑑だともてはやすし、左は戦前の陰惨な社会の宿痾だと忌み嫌う。
まあ別に原文を読んだところで、まあそうですね、そうだったらいいですね、という感じしかしないのが普通の人の感想だろう。それにこれが明治の初めに出来た、近代国家への道筋を指し示したという点はすごいだろう。教育への注力しかり、国民それぞれへの目配りしかり。いくら左がヒステリーな糾弾して嘲笑したところで、マイルストーンとしての価値を否定することは出来ないし、発展し継承していくべき理念であるというのは衆目の一致するところであろう。
かといって右がやるように現役の教材として扱うことには否定的にならざるを得ない。複雑化する現代社会において意味も分からず諳誦させる、という手法はあまりにも効率が悪い。それこそ「學ヲ修メ業ヲ習ヒ 以テ智能ヲ啓發シ」とはならないのだ。さらに子どもの家庭それぞれ事情があるわけで、理想の家族像があったとしても、生き延びるためには相反する現実に苦悩する場合もある。そりゃ昔は9割のための理念を作って1割は排除するなり無視することもあったであろう。でも時代が進めば社会の構成員は多様化していき、より精度の高いルールなり理念を打ち出すことが求められる。ただそれは個別具体的で生臭い話にもなって、万人がありがたみを感じるものではなくなる。
また昭和に入って戦時体制が強まる中で、その理念と相反するように神聖化されていった様は愚昧でかつ醜悪極まりないものである。

じゃあ鉄道博物館から蒸気機関車を引っ張り出してきて明日からの通勤輸送はこれで完璧です、といえばこいつ大丈夫かとはなるわな。実際の教育現場で歴史資料ではなく現役の教材として扱うのはそういうことである。かといって博物館にいってこんなものは公害を垂れ流すコストパフォーマンス最悪のゴミだから鉄クズとして処分してしまえ、と糾弾するのも、またこいつ大丈夫かとなる。左右の反応は要するにそういうことなのだ。じゃあ普通の人が博物館にいってかような産業遺産などに向かい合ったとき、これを現役として使おうとも鉄屑として処分してしまえとも思わない。かつての人々の情熱や労苦に思いをはせつつ、順路に従って現代に近づいていくに従って技術の進歩を体感するのである。しかし、戦後の民主主義の中で、理念がことさら少数派に向けてのみ目立つようになったりと、ある意味でウォッチャー的な目でみないと技術ほどに進歩が感じられるものではない。自分が例外側、少数側に回るまでは。

左右両極端の言説がゴミでかつ、左右両極端しか言及しないなら、その言説は相手を憎悪し見下すゴミだけになる。それは余りにも不幸であるし、近代国家の起点をそのように扱うとするなら、その後の道筋全てもまた見えなくなってしまう。教育勅語は博物館に戻してそこで向かい合おう、それが教育勅語の理念にそったあり方ではないか。