教育勅語をどう扱うべきか

昨今、また教育勅語が脚光を浴びている。悪い意味で
【メガプレミアム】安倍首相夫人・アッキーも感涙…園児に教育勅語教える“愛国”幼稚園 「卒園後、子供たちが潰される」と小学校も運営へ(1/4ページ) - 産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/150510/wst1505100014-n1.html
北朝鮮?「沖縄県祖国復帰42周年記念大会」で園児が教育勅語を一斉唱和 - ライブドアニュース
http://news.livedoor.com/article/detail/11062062/
前者は産経WESTとは思えないあれな記事だなあ、という感想

教育勅語、というと、とかくその扱いが左右に二分されてしまう
右は道徳教育の鑑だともてはやすし、左は戦前の陰惨な社会の宿痾だと忌み嫌う。
まあ別に原文を読んだところで、まあそうですね、そうだったらいいですね、という感じしかしないのが普通の人の感想だろう。それにこれが明治の初めに出来た、近代国家への道筋を指し示したという点はすごいだろう。教育への注力しかり、国民それぞれへの目配りしかり。いくら左がヒステリーな糾弾して嘲笑したところで、マイルストーンとしての価値を否定することは出来ないし、発展し継承していくべき理念であるというのは衆目の一致するところであろう。
かといって右がやるように現役の教材として扱うことには否定的にならざるを得ない。複雑化する現代社会において意味も分からず諳誦させる、という手法はあまりにも効率が悪い。それこそ「學ヲ修メ業ヲ習ヒ 以テ智能ヲ啓發シ」とはならないのだ。さらに子どもの家庭それぞれ事情があるわけで、理想の家族像があったとしても、生き延びるためには相反する現実に苦悩する場合もある。そりゃ昔は9割のための理念を作って1割は排除するなり無視することもあったであろう。でも時代が進めば社会の構成員は多様化していき、より精度の高いルールなり理念を打ち出すことが求められる。ただそれは個別具体的で生臭い話にもなって、万人がありがたみを感じるものではなくなる。
また昭和に入って戦時体制が強まる中で、その理念と相反するように神聖化されていった様は愚昧でかつ醜悪極まりないものである。

じゃあ鉄道博物館から蒸気機関車を引っ張り出してきて明日からの通勤輸送はこれで完璧です、といえばこいつ大丈夫かとはなるわな。実際の教育現場で歴史資料ではなく現役の教材として扱うのはそういうことである。かといって博物館にいってこんなものは公害を垂れ流すコストパフォーマンス最悪のゴミだから鉄クズとして処分してしまえ、と糾弾するのも、またこいつ大丈夫かとなる。左右の反応は要するにそういうことなのだ。じゃあ普通の人が博物館にいってかような産業遺産などに向かい合ったとき、これを現役として使おうとも鉄屑として処分してしまえとも思わない。かつての人々の情熱や労苦に思いをはせつつ、順路に従って現代に近づいていくに従って技術の進歩を体感するのである。しかし、戦後の民主主義の中で、理念がことさら少数派に向けてのみ目立つようになったりと、ある意味でウォッチャー的な目でみないと技術ほどに進歩が感じられるものではない。自分が例外側、少数側に回るまでは。

左右両極端の言説がゴミでかつ、左右両極端しか言及しないなら、その言説は相手を憎悪し見下すゴミだけになる。それは余りにも不幸であるし、近代国家の起点をそのように扱うとするなら、その後の道筋全てもまた見えなくなってしまう。教育勅語は博物館に戻してそこで向かい合おう、それが教育勅語の理念にそったあり方ではないか。