ゼロリスク志向とリアルリョナと呪われた組み体操

これまで等閑視されてきた組み体操のリスクが明らかにされて、国をはじめ行政が動き始めている。その中で、自治体での対応は分かれている。
まずは、基準を決めて規模を制約というパターン。ピラミッドとかタワーとかの段数に制限を加えるもの。労働衛生規則の2mに準拠した事例となっている。これで大幅にリスクは軽減できるが、子供にとって2mはまだまだ危険だ、という観点からすればより段数は低くなり、ほぼ成立しなくなるだろう。逆に、一律の規制では学校を不必要に制約することで考える力を失わせる、という意見もある。
逆に、さらに踏み込んで全面禁止に進みつつある自治体もある。実質的に学校ではこれまでまともにリスク分析を行えてなかったんだから、今後もちゃんと出来るとは思えない、というある種の不信任に近いところもある。「ゼロリスク」志向の末路だという批判もあるし、学校現場の萎縮を懸念する声もあがっているが、それなりに支持が得られる意見となろう。
じゃあ学校レベルで是々非々で基準を設定できるか、というと、子供の体力や丈夫さの分布はどの学校もほぼ同じだし非現実的である。じゃあ腕のいい先生がちゃんと指導して、それをもってしてよそよりもリスクの高い演技を許容した結果、それでも事故が起きたら、指導が足りなかったのではなく、よそよりも基準が甘いからだ、とはなるわけで、もう厳しくなる一方であろう。

これはゼロリスク志向とか、日本社会がリスクを合理的に判断出来ないからだ、という一般的な社会とリスクの関係で読み解くべきかどうかは分からない。もっと宗教的・あるいは民俗学的な考え方で読み解くべきではないだろうか。

リアルリョナとしての組体操 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/823836
以前、かかる考察を行った。危害にこそ価値がある、という倒錯した構造があるのではないかと考察したのである。
そうこう考えているときに、衝撃的な論文を見つけてしまった。
諏訪大社御柱祭文化人類学的研究―祭礼の存続と民間信仰
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/22379/3/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%BF%8A%E4%BB%8B%E3%80%80%E5%8D%9A%E8%AB%96.pdf
これの中程の2-2の章である。公式にはいないはずの祭りでの犠牲者が出たとの噂がしきりに流れる。死者が出てしまえば祭りが穢れるのでそれを隠蔽しているんだ、という話になる。しかし、わざわざそういう話をするあたり、祭りには死者がつきものであり、だからこそ意味があるのだ、というイメージを再生産している倒錯した構造がある。
これって組み体操での議論と似ていないだろうか。リスクが顕在化した段階でも、推進派はケガはつきものだと擁護するが、反対派はそもそも価値がないものに参加させられてリスクを負うのはおかしい、と拒否する。双方とも参加させられてリスクにさらされる当事者ではないところは共通である。「犠牲者」という言葉には、大いなる目的のためにリスクを引き受けてその結果、というニュアンスもある。組み体操が犠牲者の存在を通じて学校という組織の繁栄を祈願する祭りだったとしたら?そして、その御利益がある日突然否定されてしまったとしたら。

そりゃ、ある日突然、祝祭であったものが凶事にという風に逆転してしまったし、参加させられる生徒やその保護者も共同幻想が剥がれてしまっては、もう続けるは困難だし、いままで感動してきたこと自体が罪となるだろう。特に意味は無いけどくじ引きして、毎年一人ずつ大当たりした子の骨をへし折ります、というだけの話になってしまう。リスク評価しながら取り組んできたことなら、ここまでの極端な反応はないだろうけど、もとより心情的・感情的・宗教的な行事であったとすれば、化けの皮が剥がれてしまってはもう終わりである。リスク分析をして、というのはかつて騙されていたカルトに立ち戻ったり荷担することになるという心情が先に立てば、もう「騙されていた、私が愚かであった」と全面否定して罪悪感から逃れるしかあるまい。

元プロレスラーの大臣が元からリスクを分析して否定的であるのは、プロレスラーとして身体へのリスクをコントロールしながら仕事をしてきて、それでも瀕死の重症をおった経験があるからであり、ヤンキー副大臣が祝祭としての御利益ばかり評価するのも対照的だ。ただ、先の考察が正しければ後者のほうがより極端な否定に変わることは想像に難くない。

そもそも学校に何を求めるのか、というのはまさに個人個人の考え方の違いがある。自分で好きなことや取り組んでいることがあれば、充足感とかはそこから得ることが出来る。しかし大多数はそういうのはあまりないわけで、学校が充足感を供給する必要がある。しかし偏屈であれば、学校から供給される充足感を利用することは出来ない。学校行事、特に運動会については、この3層構造がある。やりたいことが他にあるなら、運動会でのリスクというのは受け入れることは出来ない。謂わば、酷道に興味の無い人を酷道に連れて行って崖から転落させるようなもんだからな。芸事やスポーツをやっているなら、ケガは致命的であり、学校のシステムを維持するために個人の権利や未来の可能性が侵害されたと考えるだろう。対して学校としてはシステムを守るためには、そういうエリートも平等に扱う必要がある。そこに強烈なコンフリクトが生まれる。また組み体操の御利益を元から信じていないなら、意味の無い行事のリスクを背負わされて犠牲者にされた、という怨念がある。吹き出した少数派の怨念が大多数のあやふやな誇らしい思い出を叩きつぶすことになった。

で、集団行動が苦手でも体力が有り余っていれば、棒倒しや騎馬戦のような騒乱系の競技の満足度は高そうである。だから、じゃあ安全なダンスで、というとゲンナリするだろう。元よりネット民あたりは偏屈に分類されるだろうから、運動会とかなくなっても特段困ることはない。しかし大多数の普通の生徒にとっては、充足感をとりあげられるだけだから大損である。9割のためのイベントの模索が続くだろうが、あまりいい結果に結びつかないような気がする。学校がより開かれた存在になり、保護者や地域からの評価が当たり前になり、多様な任務や充実感まで求められるようになった昨今において、組み体操や二分の一成人式は負荷の強い、もっといえば負荷が強いからこそ感慨深いはずの祝祭として異形の行事として深化をしてしまった。近代的な学校を通り越して現代的な価値を求めた結果、近代化以前の構造に戻ってしまったという皮肉な結末である。kの歪んだ構造がある限りは、ほどほどの政策や路線の変更よりも、推進するときの歪んだ理屈が逆流するような否定論になっていくだろう。