”道徳”教育の終焉

ツイッターにちょっと書いたことを書き直す。
まず、おいらのスタンスを書いておく。

一つは、分析には「セコい政府」論を使うこと。
これは政府は最低限の手間でそこそこの結果を出すであろうという話。
例えば企業に源泉徴収では徴税コストを負担させることで、政府は少ない手間で効率良く税金を集める事が出来る。また企業の社宅が政府の公的住宅制度の肩代わりをし、終身雇用が雇用保険などの代用となっている。
また司法だと、起訴便宜主義では、検察官の裁量で大幅に裁判コストを低減している。
このように、小さな政府の最低限の公的コストで、大きな政府に類似したサービスを提供しているのである。ただし類似であるので、公正さやカバー率の観点では課題を抱えている。しかし、大きな政府に動こうとすればサービスレベルはさほど改善されないわりにはコストがふくれあがるし、小さな政府にしようとすると、コストはさほど下がらない割りにはサービスレベルは大幅に低下する。そのため、現状が費用対効果の極大点となっており、ありとあらゆる改革は不幸をもたらす。

もう一つは、高度防災国家志向に向かいつつあるのでは、という点だ。
台風の話やクールビズの話でも述べたとおり、地震や風水害といった災害は多発する一方で、それに対応出来るほどのインフラ整備を行っていくことは出来ない。そのため、災害が起こることを前提とした社会体制に移行するのではないか、ということである。また、豊かさがすり減り労働力も減っていくかも知れないのに災害に対応するためには、豊かな時代では許されていたような無駄な競争は否定される。そのため、監督官庁の権限はふたたび強くなり、激しい競争の結果と同じ結果になるように政府が競争を経ずに誘導するのはないか、ということである。努力の質とコストパフォーマンスもまた判断されるであろう。

で、道徳の話である。
道徳は一定の条件では極めて効率的な教育手段である。それは一つは社会がやさぐれており、それを善導して平均値を大幅に改善する場合である。もう一つは、情報倫理みたいに、専門家以外の一般人は何をしちゃいけないのか分かっていない場合に、それをやんわりと啓蒙する、ということである。セコい政府論者としてはもってこいだよな。
しかし、これらの条件から外れると急激に効果を失っていくのである。
道徳は8割9割の人には届くであろうが、1%のバカか基地外聞く耳を持たない。だからすでに8割9割が善導された後となっては、道徳を聞き入れる人は元から悪いことはしないし、悪いことをする人は聞きゃしない、となる。
また道徳は加害者にならないために、という方向性であるため、災害時にどうすればいいのか、といったことや、性犯罪の被害者になった時にどうすればいいのか、といった場合には、つまり被害者になった場合にどうすれば、という内容は組み込めない。

つまり、豊かな社会において旧来の道徳というのは急速に意義を失ってるところはある。
もっというと、「自分が望むことを他人にする」教育は多様な価値観の中では地雷量産機になる。家族の尊さを説けば、毒親の子供の苦悩は深まるだろう。性道徳を説けば、往々にして性犯罪の被害者に追い打ちを掛けることになるかもしれない。ともなれば、「自分がされたくないことは他人にするな」の徹底になっちゃうんだろうね。おおかたの日本人は家族に対して理想像があるし、それに向かおうとしてる状況で、それについて道徳教育を行うのはさほど意味がないかもしれないし、例外の事例に対して有害ともなれば、無益で有害ということになってしまう。

学校は善導のための装置であった。だから先生が生徒を制裁し、そこで完結することで、警察や司法に介入させずに、当事者の更正を促すことも出来た。セコい政府としてふさわしい。しかし昨今はその境界領域での問題が増えてきているし、これまで隠蔽されていたことが暴露されつつある。犯罪としかいいようがないイジメ事案であったり、ただの暴行にエスカレートした体罰などもある。
学校が善導のための装置である必要性が薄れる一方で、生存のための装置としての役割は変わっていないどころか増えているような気がする。防災教育なんかもその一例ではあるよね。あるいは法律についての知識を持つことなんかもそうだ。災難に対してどう対処するかを教えること、あるいは1%のバカを封じ込めるか、となると、話としてはかなり個別具体的で生臭い話になる。8割9割を不愉快にさせるかもしれないし、それを教育現場に導入するのには抵抗があるかもしれない。
象徴的な事例で、今回の震災で防災無線で避難を呼びかけつつ庁舎が津波で被災して犠牲になった自治体職員の話が埼玉県の道徳の教科書に載った、という話がある。「なぜか埼玉海がない」という言葉が浮かんだのだが、本来なら防災教育の分野で、津波の時にどう対応すれば良いのかたたき込むべき話だ。生きるため。釜石市での教育活動は大きな成果を上げた。埼玉県は荒川を津波が遡上する可能性は指摘されているが、優先して対応すべきリスクでもないからなんだろうな、と思わざるを得ない。
学校で何かを教えるということは、教師や子供の時間や労力を投入することである。となるとトレードオフと機会コストの問題が発生する。道徳教育を行う事で得られる便益が他の科目よりも小さいのならやらないほうがいい、ということになる。これに対して道徳教育で得るものがある、と論じることは意味がない。他よりも価値がある、あるいはこのような問題に対応出来る、と明確に論じなければならない。高度防災国家において、より個別具体的な防災教育を行うべきであろう、という主張に対して道徳教育はどう返すのか。被災地での助け合いの精神だって現状で十分に担保されている、とされている。道徳教育などせずとも、そういう美談をテレビで流しておくくらいでいいだろう。その番組を見たときに自分は何が出来るのかちょっとは考えるだろうしね。当座の社会的安定は同調圧力で。

性教育だって、道徳を説いてもそれを聞き入れる生徒は元から何もしないだろうし、問題を起こす生徒は聞き入れないだろう。それなら個別具体的に起こりそうなトラブルについての教育を行うべきであり、あるいは1%のバカの災厄をどうするか、というのを論じるべきだわな。また性的少数者についても、世の中いろんな人いますよね、と触れておけば、そしてどう向かい合えば良いのか、ということについて、8割9割に理解させておかなければならない。高度防災国家において、少数者を社会的排除させておく余裕などないのだ。これは道徳の枠組みを使うのは効果的ではあろうが、旧来の”道徳”論者にとっては多様性を認めるというのは不快なことだろう。

再度、問いたい。”道徳”って今となっては何の役に立つのか?それに明確に答えられないなら、もはや注力すべき必要性はないだろう。

海軍軍縮条約としてのクールビズ

たとえクールビズでも、営業は「半袖シャツ」を着ないほうがいい(横山 信弘) - 個人 - Yahoo!ニュース
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yokoyamanobuhiro/20140624-00036688/
こんな記事が上がっていた
アドホックには”正しい”けど、だからこそ許されざる話なのだ。末尾に「あくまでも」と注釈があるが、そういう問題ではない。

クールビスは海軍軍縮条約であるという例え話というか仮説をしよう。
提督勢には説明の必要はないが、とりあえず雑な解説をば
戦艦とかは大きければ大きいほど、より大きな大砲も積めるし、そうすれば威力も上がるし射程も伸ばせるし、装甲も強固に出来る。なので敵よりも少しでも大きな戦艦を作れば、敵の戦艦の射程外から一方的に攻撃できる。逆に言うと、敵が自国の戦艦よりも大きな戦艦を作ってしまえば、こっちの戦力は無効化されてしまう、ということになる。
何が起こるかというとご想像の通り、各国ともこぞってより大きな戦艦を作ろうとしたが、もう国家財政が持たない、ということになった。なので軍縮条約を結んでお互いにこれ以上は作らない、という制限を行ったのである。

クールビズも同じような話で、ライバルの他社に比べて、あるいは取引先に対して失礼に当たらないように、夏でも重装備になっていった。いくら努力しても、軽装だから取引が進まないなら無駄だ、というあたり、射程外から殴られるより小さな戦艦みたいな話である。
しかし暑いし電気代の無駄である。個人個人の努力が、企業同士の努力が、資源の浪費を招く、という合成の誤謬に近い話になってしまった。で、お互いにもうやめようと、とは内心は思っていたが、自分からは言い出せない。
軍縮条約だと戦艦を持てる国同士での手打ちであったが、クールビズの場合には政府が音頭を取って行った。これにより公務員が従い、CSRにうるさい大企業が従い、社会全体を拘束するルールとなっていった。オイルショック省エネルックに比べても、うまくいったのは知ってか知らずかこういう構造があると思う。

じゃあこの記事の主張を海軍軍縮条約に喩えるとどういうことか。
「条約に参加してる国の戦艦を出し抜いて戦争に勝つために、巨大戦艦を作ろう」
あっ、条約破棄して制限なき軍艦建造競争に戻っちゃうわな。
それどころか、条約から抜けられない国に新型戦艦作って一方的に攻撃してるようなもんである。
これは許されざる話だわな
例え見苦しいとは思っても、このルールに参加し続けるしかないし、そこで厚着をして有利な立場になろうという発想は道徳的に劣った考えなのだ。また取引先がそういう風にして媚びようとするなら、敢然とたたき出すべきなのだ。

もし、営業マンは厚着をしてれば失礼に当たらないし成績も上がるというなら、ある会社は夏でも防寒具を羽織るだろうし、それに対抗する他社はその防寒具をより分厚いものにするだろう。あげくに顧客の前でフトンを被って熱々の鍋焼きうどんを啜りはじめることになる。

個々の努力や競争が社会をよりよい方向に進歩させる、という前提だけを考えていればいい時代は終わった。資源は枯渇し災害は増え、あるいは労働力も減少していく中において、いかに制約された資源で効率良く読みを生み出すのか、ということが問われる時代である。最終的に生み出される富の総和を増やすことに寄与しない努力は排撃の対象になる時代がすぐそこまで来ている。
高度防災国家におけるエクストリーム出社の是非 - よりぬき障害報告@はてな
http://d.hatena.ne.jp/lm700j/20131024

また鉄道ファンの立場からも是非とも指摘しておきたいことがある。
通勤電車の冷房化は昭和50年代くらいまでは各社とも最重要課題であった。天井に1トン近い冷房装置を設置するためには車体や台車の強化も必要であり、架線から供給される直流1500Vをサービス電源用の交流に変換する装置も、これまでの照明や扇風機程度の小さなものから、冷房を動かせる大容量のものへの換装も必須であった。
昭和50年代には、昭和40年代製の中堅クラスの車両の冷房改造とともに、車体用の軽量化などもあって冷房改造が割に合わなかった昭和30年代の初期の高性能車を置き換えるべく冷房付きの新型車の大量投入を行った。
各社とも都心のターミナルに乗り入れる車両の冷房化を達成したのは、昭和50年代から昭和60年とかの段階であった。また冷房機の廃熱によるトンネル内の温度の上昇を危惧した地下鉄において、省エネ車両への置き換えを伴った冷房化は平成に入ってであった。営団地下鉄が非冷房車を最終的に淘汰したのは平成7年の丸ノ内線の支線部においてである。
となると、クールビズに反対する向きのビジネスマナーというのが、通勤電車が非冷房であった時期に成立していたとは思えない。実際、その時代のニュース映像だと通勤電車で熨斗烏賊になってるサラリーマンはみんな半袖なり開襟シャツとかである。夏でもスーツを、というのは平成に入って可能になったと考えられるわけである。だとすれば、通勤電車の冷房化というイノベーションによって、エアコン付きの専用車で送り迎えされている重役連のマネが出来るようになった、とも考えられるわけである。だから、半袖でネクタイなしでも見苦しくならないシャツが、というイノベーションにみんな飛びついたんじゃ・・・。時代は繰り返すのであった

普通の人がパソコンを自作はせずに、完成品を購入するように、大多数のビジネスマンにとってスーツがどうの、というのも時間や手間を賭けたいとは思わないわけである。どうせ大多数に定見はないし、気候的に違う地域の習俗をまねたところで始まらない、というホンネが吹き出したというのもまた一つのクールビズの側面ではなかろうか。

国土幹線ガスパイプラインという寝言

以前、日本のガスパイプラインは大手私鉄のネットワークに似ていると指摘したことがある。
東名阪の大都市から私鉄として経営が成り立つエリアまで路線を建設してきた大手私鉄と、都市ガス事業が成り立つエリアに順次を延ばしてきたガスパイプラインというアナロジーである。
私鉄は近鉄の大阪名古屋の都市間輸送を除いて、広域の都市圏間輸送は行っていない。これはすでに国鉄があって、戦後は新幹線や飛行機があったから成立し得ない、ということである。新京阪(現在の阪急京都線)が名古屋まで延ばそうって計画があったけど頓挫したとか、財界出資で広軌の電気鉄道をって構想も消えたよな。近鉄だって、構想はさておき、大阪から伊勢神宮までの鉄道と名古屋から伊勢神宮までの鉄道が接続して形成されたものだ。
じゃあガスに広域の都市圏間輸送の意味があるのか、というと、ずいぶんと微妙なものである。平時に大阪のLNG基地から中京圏の家庭や工場までガスを送る意味があるのか、と考えれば自明のことである。桑名の人が近鉄特急で大阪の百貨店に買い物にいくかって話と同じ。
大阪ガスの滋賀三重ラインだって、あくまでのフィーダーの背中合わせでしかない。PWRのSGの交換で劇的に稼働率が向上した関電は金が余って余って自前でアステル用に光ファイバーを引き、大阪ガスとの暗黙のしきたりを無視して自前でLNG基地を建設した。関電からのガスの液化の仕事をごっそり失った大阪ガス敦賀LNG基地を断念せざるを得ず、また発電事業やエリア拡大に注力することになった。敦賀の基地がないと滋賀県へは京阪神から送り込むだけになってバックアップがない。なので三重県側と繋いだわけである。

だから国土幹線ガスパイプラインのように見えるけど、フィーダーの背中合わせでしかない。

例外としては新潟から仙台とか東京までのガスパイプラインがあるが、これは新潟のガス田のためのものであり、特異な事例といえるかもしれない。

で、そういう鉄道のネットワークから広域の都市圏輸送を抜き取った先に何が残るのかというと大幹線での県境を越えるローカル輸送である。
18きっぷシーズンの難所と言えば大垣〜米原や、岡山〜相生であるが、前者は30分おき、後者は1時間おきに短編成のが行き交うだけである。青山町と伊勢中川との間の30分おきに2両編成のワンマン列車が行き交うだけ。これが国土幹線ガスパイプラインの結末である。

隣の都市圏からパイプラインで延々引っ張ってきたガスを買うのか、という話になると、まだ基地がない都市圏なら需要があるかもしれないが、すでに基地がある場合にはそこでの価格競争となる。需要以上に巨大な基地を作ってなんとかお願いします、ともならない限りは難しいだろう。基地の運営コストやガスの買い付けは電力会社との共同プロジェクトなわけで、そこでも元から似たようなものになってしまう。なのでパイプラインのコストだけ不利になる、というオチ。
さらに発電所が最大の需要だったりするので、そうなると既設の送電線や相手先の地区の既設の火力発電所との競合になってしまう。これではまた無理な話である。

ガスインフラ空白地帯なら、というのかもしれないけど、太平洋ベルト地帯には多かれ少なかれガスの基地は存在するし、それ以外だと需要すらということになってしまう。インフラは常にその時点ではほぼ最適解になっている。

となると災害時のバックアップとなるわけだが、東日本大震災の時のように、新潟から仙台市ガス局に送ったように家庭用ガスの分だけあればいい。発電所は都市型の火力と地方の原発のようにある程度分散してるし、電力融通が拡大されれば解決する話でもある。となるとフィーダーレベルのが背中合わせで、というだけだ。

で、自由に流通できる市場があれば電力は安くなるから、という電力自由化論者はいるかもしれない。でも送電線もパイプラインも電気は産まないのである。しかもすでにあるネットワークでだいたい足りている状況では使われないし、そのコストを自分で負担する向きもいない。本来いらないものを市場を成立させるために作る意味があるのか、という問いかけは重要である。大阪の人が名古屋へ高速道路を使っていけば楽しいだろうが、大阪のガスが名古屋までパイプラインでいって幸せになるかは小生は天然ガスの分子に親戚がいないので分からないが、まあないだろう。その時点で無駄な道路を指弾するならパイプラインや必要以上の連系用の送電線はそれ以上に無駄である。

むろん、隣接する電力会社とかガス会社とかで競争が起これば、いちばん安くできるところに収束はするだろう。
それだったら官僚なり電力会社の幹部なりが鉛筆舐め舐めなり、公開情報で仮想的な市場を作って目標価格を決め打ちしてもいいわけである。

とにかくガスのパイプラインでを作れって言う向きがいたら、例えば大垣駅名古屋方面米原方面の時刻表を見せてどっちだよって聞けば良い。米原方面の時刻表を差して、このレベルでぼちぼちというなら信頼出来る論者だが、それはガス会社が作れば良いし規制面などでの側面支援で十分だ。名古屋方面を差してこれで日本は生まれ変わる、などという向きは・・・・・

あ艦これ史観〜おもしろうてやがて悲しき艦隊これくしょん

「艦これ」は自虐史観を矯正するか : アゴラ - ライブドアブログ
http://agora-web.jp/archives/1566166.html
なんだこれって記事を見つけて頭を痛くする人がそれなりに

艦これと史観というのも色々難しいところもある
田中Pの思いを察してみるに、大日本帝国海軍が「したかったこと」「すべきだったこと」「してしまったこと」を再現する、というところにあるのではないか。

したかったこと、というと巨大な戦艦による大艦巨砲主義や、高速重武装特型駆逐艦軽巡洋艦による重雷装艦による艦隊決戦の前の漸減作戦や、艦載機による一方的なアウトレンジ攻撃などがある。特に特型駆逐艦を引き連れての水雷戦の夜戦なんかもうね、という感じである。格上の相手をボコボコと葬る姿はまさに工業力におとる日本が選択せざるを得なかった隘路だったのかもしれないよな。実際には大戦前半の少数の事例を除いては思うようにはならなかったわけだが、それ故、プレーヤーには強い印象を与えるんだよなあ。

すべきだったこと、というと大井篤の海上護衛船で指摘されるように、艦隊決戦のみならずシーレーンの防衛への注力や、資源の管理といったところ。ゲーム内の資源の枯渇に頭を悩ます提督は、鯖への猫来襲に苦闘する運営鎮守府の姿に自らの労苦を重ねたので、より一層印象深かったのではないだろうか。健気に資源輸送に励む睦月型駆逐艦幼稚園を見るに、大戦の途中から投入された簡便な雑木林型駆逐艦の意味が分かるし、ボーキの大食いを考えると戦闘機の護衛の必須さもまた理解できるだろう。実際の戦場ではボーキが消えた分、パイロットが二度と帰ってこなかったことを思うと、より重い問いかけを投げかけている。

してしまったこと、というと艦娘を沈めたくないあまりに、戦果を目の前にしての撤退を繰り返す、というのがあるわな。自らの意志で撤退するという選択肢が与えられたときに、艦隊温存が前提であればリスクはとれない、ということを考えてしまうのである。さらには羅針盤が醸し出す戦場の霧の中で不確実性を避けようとすると尚更になってしまう。
戦史を読むに後知恵でとやかくいうことはできるけれども、いざ自分が意志決定をする段になれば、嗚呼と思ってしまう。

艦これがあえて避けているところもある。例えば特攻兵器の類は出さない、という話な。台詞の中でもそれを臭わせるところもあるが、どう扱うかはずいぶんと悩んだんだろうな、と思う。甲標的についてはうぃきぺさんで確認したが、ちゃんと生還するような使い方もされていたそうだ。開発で出てきたんだが、装備する時に確認をせざるを得なかった。
あるいは電は沈めた敵も助けたいというけど、利根のビハール号事件伊8などの撃沈した艦船の乗員の殺害などの暗い面がある。前者は艦長の裁量による美談であり、後者は上からの命令による深い闇。ゲーム内では直接触れないにしろ、調べれば必ず知ってしまう話でもあり、提督それぞれが自分で考えなければならないんだろうな。

そして、史実ではほとんどの船は沈められてしまうわけで、その悲しい避けられない破局と帰結をある意味で引き延ばし続けるのがゲームの目的なのか、そんなことを考えてしまうのである。戦史も技術史も戦場の悲劇も猫もガチレズ大井botも飲み込んで、”史観”という型にはまった言葉で割り切れないものを受け止めて考える、それが艦これと出会えたことの意味であるとすれば、100万提督のそれぞれの心にある”あ艦これ史観”というのはあるのかもしれない。矛盾してるけどねw

高度防災国家におけるエクストリーム出社の是非

この前の台風では、元から鉄道は間引きが予告されており、企業は一部の社員をホテルに泊まらたりした。
それが段ボールを床に引いて寝てろ、といわれたというツイートが話題を呼んだ。
で台風が来るとどんどんと列車が運休がされる中で、来なくてもいい、と言われるのに苦労して出社する人も出てきた。
朝日新聞デジタル:「サラリーマンなので…待つ」 通勤・通学の足も混乱 - 社会
http://www.asahi.com/national/update/1016/TKY201310160104.html
「会社からは無理しないでいいと言われていたが、サラリーマンなので来てしまった。再開を待つしかない」
実は多様な問題を孕んでいるんだよね

まずはBCPの観点からは業務を継続するための最低限の要員を抽出して、その人達に会社の経費で泊まり込んで貰うなり、タクシー通勤の費用を持つなりするのはまあそうだろう、という気がする。
逆に言うと列車の運行が混乱している中で足止めを食らっている、というのは、そもそもその日に出社する必然性はそれほどない、ということなのである。
あるいは必要な要員の選別が出来ていないので、というところもあるわな。

全体主義的なことをいうと、不足するリソースをいかに有効活用するか、という観点は非常に重要である。
こういう時に不足するのは通勤列車の輸送力である。
列車が半分に間引かれれば、半分以上の社員を出社させるのは、他社よりも優先して社員を出社させないといけないそれ相応の理由が無い限りは、その企業が不足する資源を無駄使いしているともいえる。
混雑する列車に乗っているのが、上記のようなあやふやな理由だったとするなら、それなりに問題はあるわけだ。
例えば断水しているときに備蓄してあるペットボトルの水を、のどが渇いている人が居るにもかかわらず、その人には渡さずに勝手にそれで体を洗うようなもんだ。
不足しているリソースを優先度の高い順に、あるいはなくては困る順に配分する”トリアージ”は必要となる。

対して、個人個人としての観点としては、通勤時に足止めを食らっている時間の給与は出ないわけで、時間の無駄でもある。
必要な要員から外れているなら、出社してみたところで他の社員はいないとか、取引先が機能停止しているとかであれば、仕事にはならない。
となるなら在宅で出来ることをやるなりお休みにするなりが合理的である。
ここに社会全体の最適化のための結論と、個人の最適化は合致する。

ただ個人の最適化を指摘するあまりに、災害対応に当たる人や社会や業務の維持に必要な要員、という観点が抜け落ちた論評が見られるが、これは浅薄と言わざるを得ない。
「10年に1度の台風」のなか、社員に出社させる会社は「ブラック企業」だ
http://blogos.com/article/71759/
「生産性の概念が欠如」。だから台風でも通常出社しようとする
http://blogos.com/article/71774/
いくら賛同を集めたところで、社会を動かすおっさん連中にとってはないとの同じだ。
災害時に動く人のために我々はリソースを譲ろう、という発想こそが大義名分となる。

社会にとって最適なことと個人にとって最適なことはここに合致したが、なぜ実現されないのか。
察するに企業内での忠誠心ゲームとしてのエクストリーム出社の問題がある。
抜け駆けして苦労して出社すれば、合理的に休んだ人よりも優位に立てる。
あるいは会社の機能を抑止しなければ取引先から評価される。
こういうことを期待しての行動でもあるわけだ。
キンゲームというか囚人のジレンマみたいな状況になっている。

ここで必要なのはある種の強制力である。
この手の問題に対してのいい例としてはクールビズがある。
政府が音頭を取って、ソフトな統制をかけることで、みんなでガマンして耐えていたことをやめようとなるわけ。
これも他人よりも他社よりも軽装なら負けるという囚人のジレンマを解消している。
そして社会全体で節電とか快適執務とかを実現を出来たわけだ。
これに習えば、例えば気象庁が情報を提供して、それに応じて列車の間引き宣言が出たら、間引き率に応じて企業は社員の出社率を制限する。
そのような行動計画を企業に義務づける、ということはどうだろうか。
(当然ながら重要度に応じて出社率は変動させるべきだが)
台風だけではなく、地震・富士山噴火やそれに伴うインフラの混乱などでも適応可能だろう。
企業としては、取引先もライバル会社も機能停止するなら、競争上は不利にはならないわけである。
それに台風なら順繰りで日本全国が麻痺するから、サプライチェーン上は1日分のバッファで足りるだろうしな。
夏場はその分を積み増しておく、ということになるのではないだろうか。最適解としては・・・・

このような台風が今後は年に何回も通るともなると、ちゃんとした行動計画を作ってしまったほうがトータルでは安いよな。
エクストリーム出社のコストは現状では社員の労苦や、電車の不必要な混雑といった形での社会での負担になっている。
いわゆる外部不経済というやつで、ちゃんとコストを内部化させるべきで、このコストを企業が持つとしたら、全然違う均衡点に落ち着くはずなのである。
高度防災国家においてはそこまで踏み込むべきなのである。

遠からずこの手の規制が政府からなされ、必要な要員でもないのに苦労して出社が美談ではなく愚行・悪事であるとされる日が来たとしたら、忠誠心ゲームに打ち込むことが出来た日々を平和な日々だったと懐かしむことになるだろう。
それは社畜の解放でもなくノマドの勝利でもなく、社会が災害に対して撤退戦を続けているだけなのかもしれない。
永遠に続く負け戦を強いられてるのかもしれないな、高度防災国家って奴は。同じ負け戦でも損害を極小化しているだけで

高度防災国家におけるエクストリーム出社の未来 - Togetter
http://togetter.com/li/577740

京王迂回ルート暫定版

無事湖をつぶして以来この調子なので那珂ちゃんのファンやめます!

前提として、
井の頭線と本線系統は同時には止まらない
京王新線は笹塚までは早期に復旧する

京王新線脂肪時

初台 
南側なら小田急参宮橋から徒歩 10分
東側なら新宿駅から徒歩 10分強
北側なら大江戸線西新宿五丁目から徒歩 10分強
京王バス 宿41 宿45  新宿中野
http://transfer.navitime.biz/bus-navi/pc/diagram/BusDiagram?orvCode=00017008&selectDnvCode=00020899&dnvCode=00020899&course=0000400235&stopNo=1
京王バス 渋63 渋64 渋谷中野

幡ヶ谷
南側 小田急代々木上原 15分
京王バス 宿41 宿45  新宿中野
京王バス 渋63 渋谷中野


本線・新線脂肪時
笹塚
南側 小田急代々木上原・東北沢から徒歩 20分
北側 丸ノ内線 方南町中野富士見町から徒歩 20分強
渋谷から バスは幡ヶ谷と同じ。笹塚中学下車
ハチ公バス 春の小川ルート

以下は本線脂肪時

代田橋
笹塚・明大前から徒歩

明大前
井の頭線

下高井戸 バス空白地帯・世田谷線パンク前提で
北側 永福町から徒歩
神田川を越える橋が限られているので都道427のみ
そうでなければ明大前から徒歩

桜上水 バス空白地帯
杉並区のコミュニティバスがあるがパンクの恐れ大
北側は永福町・西永福から徒歩
神田川を越える橋が限られているので水道道路こと都道428推奨
南側は小田急経堂から徒歩30分
世田谷線が動いているなら下高井戸や松原から徒歩

上北沢
駅前にいるバスは小田急駅にはいかない循環バス
北側は浜田山から徒歩30分弱
南側は経堂・千歳船橋からバス

八幡山
荻窪・高井戸から環八を走る関東バスが頻発
甲州街道バス停で下車
南部は千歳船橋千歳烏山間バス頻発。蘆花公園付近で降りて徒歩

芦花公園
荻窪・高井戸から環八を走る関東バスが頻発。芦花公園駅前まで
南部は千歳船橋千歳烏山間バス頻発。蘆花公園付近で降りて徒歩

千歳烏山
荻窪・高井戸から環八を走る関東バスが頻発。
吉祥寺からも15分おき
半数が芦花公園で折り返すが一部は千歳烏山まで
南部は千歳船橋千歳烏山間バス頻発
成城学園前から上祖師谷あたりまでバス頻発
北部は久我山富士見ヶ丘から徒歩30分程度
神田川を渡る橋を要確認

仙川
成城学園前からバス頻発
三鷹・吉祥寺から頻発

つつじヶ丘
南側は成城学園前から神代団地行き
つつじヶ丘〜深大寺は本数が多いので
三鷹・吉祥寺・武蔵境から深大寺乗り換え

柴崎
基本的につつじヶ丘・国領に準拠
神代団地から徒歩


国領
狛江から頻発
武蔵境から境91系統が直行

布田
駅南は狛江・成城学園前から頻発
境91と調布吉祥寺間の吉14が駅北側を通る

調布駅
武蔵境・武蔵小金井・吉祥寺・三鷹からバス頻発
狛江・成城学園前からも
矢野口から徒歩30分強

西調布
武蔵境・武蔵小金井から
西武多摩川線多磨駅からも

飛田給・武蔵野台・多磨霊園
西武多摩川線白糸台から徒歩

東府中
武蔵小金井からバス頻発
白糸台・府中本町から徒歩

府中
府中本町から徒歩
各方面からバス

分倍河原
南武線

中河原
北側は南武線西府・分倍河原から徒歩
南側は新大栗橋バス停から徒歩

聖蹟桜ヶ丘
多摩センター・谷保・立川からバス頻発

百草園
北側・東側・谷保・立川からのバスで川を渡ったあたりで降りる
多摩センターから一ノ宮バス停で降りる
西側 高幡不動から歩く

南平
中央線豊田から徒歩・バス

平山城址公園
中央線豊田から徒歩・バス
多摩センターからバス

長沼
京王八王子からバス
南側の丘陵には京王八王子〜北野〜八王子みなみ野・南大沢のバスあり

北野
京王八王子〜北野〜八王子みなみ野・南大沢のバスあり
横浜線片倉や八王子から徒歩

京王八王子
JR八王子から

高尾線:意外と雨に弱い

片倉
JR片倉か八王子から徒歩
八王子からバス

山田
JR片倉か八王子から徒歩
八王子からバス
西八王子→めじろ台のバスでめじろ台1丁目

めじろ台
西八王子からバス頻発

狭間
高尾から徒歩

高尾
JR

高尾山口
川沿いであり崖なども多いので
風水害で運行ストップの際には高尾駅高尾山口駅
駅係員や警察消防などの指示に従って待機することをおすすめします


相模原線:本線つつじヶ丘まで単独で復旧する可能性は高いが
その一方でダイヤが回復せずに、というリスクも高い

京王多摩川
矢野口から徒歩

稲田堤
南武線

京王よみうりランド
矢野口から徒歩

稲城
稲城長沼から徒歩

若葉台
黒川・はるひ野から徒歩

永山
小田急から

多摩センター
小田急多摩モノレールから
聖蹟桜ヶ丘からバス頻発

京王堀之内
北側は多摩モノレール大塚帝京大学から野猿街道を歩く
南側や尾根幹線付近は小田急唐木田から歩く。ただしゴルフ場があるのでショートカットできず
多摩センター・聖蹟桜ヶ丘平山城址公園からバスあり

南大沢
尾根幹線付近は小田急唐木田から徒歩も可能
京王八王子・北野からバス
多摩センターからバス
橋本からバス

多摩境
橋本からバスあり
町田街道に町田→橋本方面のバスあり

橋本
横浜線・相模線
八王子からバスあり

「青い眼の近江商人」と「神の国」

ヴォーリズ評伝

ヴォーリズ評伝

けいおん再放送記念でヴォーリズの評伝をば
著者は牧師でかつ近江兄弟社の運営に関わってきた人
奥村直彦 プロフィール - あのひと検索 SPYSEE [スパイシー]
http://spysee.jp/%E5%A5%A5%E6%9D%91%E7%9B%B4%E5%BD%A6/1300118/
なのでキリスト教の理論面からの解説が多い
ヴォーリズって日本に帰化した建築家でしょ」的な評価がある中で、伝道者としてどうだったのかという視点から読み解いていくのは興味深い。あくまでも神の国を目指すピューリタニズム的な伝道者であって、教育・医療・企業など各種の活動も全てはキリスト教的精神からであり、ことさら近江商人の精神とは書いていない。またその「神の国」を作っていくような運動に対しても、その後のキリスト教団からは若干邪道扱いされている。
地元や仏教勢力とはかなり長い間gdgdもめていたところもあって、サナトリウムの墓地を建設する際にも裁判沙汰となっている。都市住民や裕福な成功した商人とは好意的な関係が築けても、農村の普通の住民とはあまりうまくいっていなかったところもあったという。その辺で日本の閉鎖的なムラ社会との対立が見て取れるが、もし僧侶が日本語教師としてアメリカに赴いて伝道して、そんで墓地まで作ろうとすればそりゃとやかく言われるだろうから、ことさら閉鎖性を論難するのもちょっとな、と思う。
ヴォーリズは開戦直前に日本に帰化をするわけだが、当時の外国人と同じく熱烈な皇室ファンとなっていた。その辺も若干批判的に書いているんだよな。またキリスト教がなぜ日本では広まらないのか、という面でも外来宗教の土着化の問題を示している。
結局、ヴォーリズの精神は地域に根付き多くの人の共感を得たが、その中でキリスト教精神は抜け落ちていき「青い眼の近江商人」と言われ、日本の向こう三軒両隣の泥沼の中に消えていく。新快速は来たけど神の国は来なかったのである。青い眼の近江商人、というのはずいぶんな仕打ちなのかもしれない。

あと米メンソレータム本社との関係の話なんだが、3代目の社長になって利益至上主義になって、近江兄弟社はいろいろ締め上げられて経営破綻することに。
ただ、その後経営が傾いた米メンソレータムは、日本でのメンソレータムの権利の譲渡先のロート製薬に買収される。ちょうどイトーヨーカドーセブンイレブンみたいな話だが、著者の書き方には若干メシウマ感が感じられるw
なんか、敬虔なキリスト教徒からは俺ら普通の日本人って、こんな風に見られていたんだ、という意味でも興味深い本だった。

ヴォーリズ評伝: 日本で隣人愛を実践したア ... - 奥村直彦 - Google ブックス
http://books.google.com/books/about/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%BA%E8%A9%95%E4%BC%9D.html?id=qlCmAAAACAAJ
出版社 港の人・MinatoNoHito『ヴォーリズ評伝〜日本で隣人愛を実践したアメリカ人』
http://www.minatonohito.jp/products/046_01.html
ウィリアム・メレル・ヴォーリズのこと - 港の人日記 
http://d.hatena.ne.jp/miasiro/20111026/p1
出版社 港の人・MinatoNoHito『ヴォーリズ評伝〜日本で隣人愛を実践したアメリカ人』
http://www.minatonohito.jp/products/046s_01.html
ヴォーリズ評伝
http://www.shinjuku-shobo.co.jp/new5-15/shohyo/shohyo_data/zsho_332_Voris.html
ヴォーリズ評伝』
http://www20.tok2.com/home/takapan/hon/h_Voriescb.html
試練の2009年、晩夏にヴォーリズの風そよぐ: メメント ド ミニ
http://yukochappy.seesaa.net/article/126362982.html
「アタマの引き出し」は生きるチカラだ!: 「信仰と商売の両立」の実践−”建築家” ヴォーリズ
http://e-satoken.blogspot.com/2009/05/william-merrell-vories-as-architect.html

講師プロフィル(岩原 侑 氏)−未来企業研究会/イズミヤ総研
http://www.izumiya-ri.co.jp/mirai/profile/iwahara.html
こちらは事業に対して惚れた人の書いた評伝である。かなりスタンスとして違いがあるよな